鬼講師

 今振り返れば贅沢な悩みのようにも思うが、僕はもともとピアノがやりたかったわけではない。小学生のころ、近所の子どもたちと一緒にピアノを習っていたが、それとて自分がやりたいからではなく、僕のために良かれと思った親にやらされていたからだ。

 ピアノ講師は、陰でも半径十メートル圏外でも「鬼」と呼ばずにはいられなかったほど、当時の僕にとっては怖く恐ろしい存在だった。

 練習をサボって音を間違えれば、手をパチン。楽譜の角で、頭をゴツンもある。

 今でも狂気としか思えなかったのは、練習せずにレッスンに臨んだら、手の甲にボールペンで×印を書かれたことだ。

 今なら「反抗」どころか、「反攻」に転じ、場合によっては「犯行」になってしまうかもしれないが、当時の僕は幼気な少年だ。女性とはいえ、大の大人に勝てるはずもない。

 そんな大の大人が示すヒステリーの前に、僕の防衛本能は無力化され、彼女への服従を強いられる週一回のレッスンの度に泣かされた。それもあってか、「女のピアノ講師=ヒステリー」という偏見が今でもどこか抜けず、ピアノ講師だという女の人に会うたびに、本当は隠れヒステリアンか、と疑ってしまう。

 今の教育基準ではどう考えても物理的、精神的体罰に該当すると思うし、悪評が立ってピアノ講師の職を続けられなかったと思う。「あの先生のやり方は、古い」と。

 だが、今から二十年以上前の二十世紀末ぐらいまでは、インターネットやスマートフォンによる口コミ時代が到来しておらず、「厳しさは愛情の裏返し」として、今でいうパワハラ肯定論が渦巻き、それを正しい価値観と信じる大人も多かった。

 厳しいレッスンに耐えてこそ、確かな技術は身につくと信じて疑わぬ人も少なくなかった。

 実際、僕が教わった鬼講師と、優しいと評判の別のピアノ講師では、教え子のレベルがまるで違った。

 鬼講師派の大人の中には、「優しさと甘さを履き違えている。だから、伸びないのよ」と、優しい系の講師を批判する人もいた。

 僕は、プロのピアニストや音大進学を目指していたわけではなかったので、甘くて優しい先生の方が性に合っていたと思う。

 だが、そんな僕の意見など聞き入れてもらえるはずもなく、技術向上を目指した鬼講師とのレッスンは、何だかんだいって十年弱は続いたと思う。

 しかも、クラシック専門の先生で、一つの曲を暗譜してオッケーが出てから次の曲に移るというスタイルだったため、曲の難易度や、演奏者のテクニックの優劣で音楽を並べる思考パターンが身につき、レベルに関係なく自分が好きな曲を弾くのではなく、少しでも難しい曲を弾きこなすことが実力の証だと思い込むようになってしまっていた。

 そのため、中学生の時、偶然出会った別のピアノ講師に、「どうして、自分の好きな曲を教えてもらわないの?」と言われたときは、目から鱗が落ちる思いだった。

 そんな状況で、嫌々サボりながらではあるが、我ながらよく十年弱もその鬼講師に師事したものである。

 今のおっさんになってしまった弱っちぃ僕では、決して耐えられなかったのではないかと思う。

 今からでも遅くない。当時の僕を、自分で自分を褒めてあげたい。「よく十年近くも耐えた――」と。

 

 ただ、今思えば、色々な感情はあるにせよ、何だかんだで、その鬼講師こそが学校の先生も含めて、僕が一番長いこと教わった「先生」でもあった。また、この人に教えてもらっていなければ、今でも僕はピアノが弾けなかっただろうし、少なくともこのホームページは生まれなかっただろう。

 それもまた事実である。

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